第10話

「最低賃金の男」



 一生懸命真面目に営業していると思われる新人のS乗務員。おとなしそうな30代独身の男。この会社に入社

するまでは他社でタクシーを乗っていた経験者である。


 入社して間もない新人乗務員は、指導的立場にある先輩乗務員や運行管理者から1日の勤務終了後に、日

報を基に営業面での指導教育を数ヶ月間に渡って受ける。

 このS乗務員。数ヶ月経っても売り上げが低い状態が続いていた。タコグラフ(運行記録計)を調べても

一生懸命走っている記録が残っている。それを見ると走行距離に比べ空車の状況が多く、実車(お客さんを乗

せている状態)が非常に少ない状態だった。

 タコグラフを見る限り、適切な休憩時間も取り真面目に走っている様子がうかがえる。これだけ真面目に走っ

ているのに売り上げが上がらない。仕事が下手、センスが無いなど売り上げの上がらない要因はあるが、多く

の場合走行距離が少ない場合が多い。このことから、運行管理者を含め先輩たちはS乗務員の営業について

不可解さと疑念を抱いていた。

 運行管理者は、他の乗務員からS乗務員の仕事ぶりについて聴取し、原因究明に努めた。同僚乗務員は皆、

口を揃えていつも同じ地域を一生懸命流しているということで一致している。私もよく彼を見かけ、いつも同じ

場所を流していると思っていた。そこを流すといつもS乗務員とすれ違う・・・。変わった男だ。


 タクシー運転手の賃金。会社により違うが、基本給+歩合給の給与体系が大半である。会社は、売り上げの

上がらない乗務員には神経を使う。なぜならば、売り上げを上げなくても最低賃金というものが存在し、雇用し

ている以上最低賃金額以上を乗務員に支払わなければならない。国の最低賃金法があるからだ。

 S乗務員の営業収入は、会社の平均営業収入よりも大幅に下回っていたようだ。人件費が営業収入の半分

以上を占めるタクシー運転手の労働賃金。営業収入があまりにも低ければ、営業経費を引き最低賃金を支払

うと会社は赤字になりかねない。会社は乗務員に対し即、会社を辞めるか売り上げを上げるかの選択を迫る。

 それにしても地方の田舎町のタクシーではないのだ。流し営業が出来る大都会東京では「犬も歩けば棒に

当たる」ではないが、「タクシーも走れば客に当たる」。走っているのに売り上げが上がらないわけがない。


 半年を過ぎた頃であろうか、1本の電話が営業所に入ったことで状況は一変した。

 お客さんからの苦情でS乗務員の乗ったタクシーが乗車拒否をしたというのだ。事情聴取の結果、乗車拒否

は日常的に頻繁に行っていたことが発覚した。悪い事は出来ないものである。いずれその悪事が暴かれるの

が世の常である。

 S乗務員は、同じ地域をぐるぐる回りながら、一生懸命流しながら乗車拒否をしていたのである。急転直下、

売り上げの上がらない原因が解明されたのである。

 とんだ食わせ者である。全くその意図が理解できないし、こんな男は前例がないであろう。S乗務員は、巧妙

に国の最低賃金法を意識して会社を欺いたのか。ただ単に仕事をしたくないがために乗車拒否を繰り返した

のか真相は不明だ。違法行為は紛れも無い事実である。



※注)車両の運行状況は、タコグラフ(運行記録計)によって記録される。タクシーの車内を見ると、ダッシュ

パネルに大きな時計があるのをよく目にする。これがタコグラフであり、中を開けると円形のチャート紙がセッ

トできるようになっている。最近車両によっては、トランクに設置している場合もある。チャート紙には、何時に

何キロの速度を出していたのか、停車しているのか。また、空車なのか実車であったのかを正確に記録する

ことができるもので、運行管理者により解析され乗務員の労務管理、営業状況を把握することができる。最近

では、より詳細な情報が記録されるデジタル化された製品も開発されている。



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