第3話

営業日誌から

「お化け」


 景気の低迷から最近仲間内でもめっきり使われなくなった言葉、「お化け」。いわゆるロング(遠距離)の

お客様を称する。普段の営業では有り得ない運転手がビックリする位の遠距離のお客さんを「お化け」と業界

では称する。それにしても「お化け」、「ゴミ」など失礼極まりない隠語だ。どこのタクシー会社でも、仕事

を終え営業所に帰ると運転手の隠語が飛びかっている。サラリーマン同様、どんな業種であれ仲間が集まれば

仕事の話は尽きない。「あいつは、どこ行った。ここ行った・・・」 だが、タクシー運転手の場合この話に

終始するのがつまらないところでもある。長いタクシー人生の中で誰もが一度は経験するだろう「お化け」と

の遭遇。いや、遠距離のお客様。 話は、法人タクシー時代に遡る。


 5月××日午後9時35分 港区青山 青山墓地内

 「ピッ」タクシーメーターの営収累計ボタンを確認する。午後10時を前に3万円の売り上げしかない・・・・

こりゃいかん!悪すぎる。気合を入れ直し夜の戦闘に備える。


 青山から赤坂歓楽街の戦地に向かう。青山墓地の中を走行中無線が出た、「麻布永坂・・・」オペレーター

が呼びかける。無意識に応答ボタンを押した。入った!

 「1621了解、1621は無線室大至急有線!!」

 なんであろう!?場所の誘導なしにいきなり電話しろとは。

 墓地の脇に車を停め無線室に電話する。



 無線室「1621ですか?北陸のF市まで行く?」 

 「行きます!」 とは言ったものの頭が白くなった・・・・ビックリ仰天だ。ここは、青山墓地の中なのであ

る。まさに「お化け」が出たわけだ。


 オペレーターは、行き先のルートについて何のフォローもないままお迎え先の詳細を告げるだけだった。

りあえず行きますとは言ったものの、F市の所在位置が頭の中で浮かんでこない。お迎え先に向かいながらど

のルートで行くのか!?関越自動車道なのか東名なのか・・・・車両に積んでいる地図は関東近県の地図しか

ないのである。そして一番大事な事が頭を過ぎった。燃料の問題だ。どこでも給油出来る個人タクシーのガソ

リン車ではない。LPG燃料なので給油の問題が大事だ。大阪まで約500km、いずれにせよ途中1回の給

油で間に合う計算が頭の中で出来て内心ホッとするが。しかし、帰りの事が不安だ。どうせ会社の帰庫時間に

は間に合いうにもないから「後はどうにでもなれだ!」と営業所に連絡を入れつつ客先に向かった。


 お迎え先のマンションに着きお客様を迎える。小走りで小さな鞄を一つ持ったサングラス調の眼鏡を掛け

少し若作りで長身の中年男性が車まで来た。 「じゃあ、F市までお願いします」 車中ルートを確認し東名、

名神経由北陸自動車道のルートで行くことになった。首都高霞ヶ関入り口より首都高3号線に入り一路東名に

向かう。午後10時を少し回ったところだ。

 事情を聞くとお父様が危篤ということで急遽タクシーを走らせることになったそうだ。お客様は、作家で出

版会社の方と会食中に知らせが入り、出版会社の厚意でタクシーの手配をしてくれたとの事だった。事情が分

かりアクセルに力が入った。東名の厚木ICまでは、見慣れたいつもの景色だがその先はめったに行くことはな

い。神奈川県の外れ御殿場の手前にある足柄SAでLPGの給油を行う。今は知らないが当時は、東名、名神も下

り線のここにしか給油所がないのである。需要がないからであろう。なんと不便なことか!この時ほど個人タ

クシーのガソリン車がうらやましいと思ったことはない。ここからノン・給油だ。果たしてたどり着けるのか。


 制限速度100km/hをトラックが多い中、延々と時速120km/hで巡航する。この車の90%近い出力だ。

 静岡県も半ばを過ぎた頃、お客様に声を掛けた。

 「トイレ休憩はよろしいですか?」

 「結構です」  

 実は、私も休憩したかったのだが、結局休憩させてくれなかった。車中タバコをよく吸う人だと思った。半

端な本数じゃない、ヘビースモーカーである。タバコを吸いながらもの想いにふけっているようだ。

 そうか・・・・きっとお父様の事を想い出されているのだろう。一刻も早く会いたいという気持ちが伝わっ

てきた。よし頑張ろう!アクセルを踏み続けた。

 どうやらお客様は、最近の有名な小説家らしい。ヘビースモーカーも納得がいった。日頃小説を読まない

には知らない人だった。「身近なところで週刊誌の中で連載中のマージャンをやっています」、との事だ。

井沢がご自宅で週に何回か東京の別宅に来るらしい。なんとも羨ましい生活で、売れている作家なのであろう。


 車は愛知県の名古屋にさしかかる。高速道路の両脇にラブホテルが多く、ネオンが眩しい。

 まるでラスベガスのネオン街のようだ。

 やがて車は北陸自動車道に入り緩やかな上り坂を日本海に向けて走る。東京を出て4時間を経過した。F市ま

で○○kmの表示板が出てきた、後もう一歩だ。午前3時を少し回った頃無事にF市の病院に着いた。東京を経

ち約5時間、途中1回の給油所立ち寄りだけでノン・ストップだ。運賃メーターは、割り引いて(遠距離割引)

16万円を超えていた。無事、何事もなく到着できた安堵感と達成感、使命感が心地よい。丁重にお礼を述べ病

院を後にした。


 さて、いかに早く帰ることを考えなくてはならない。燃料計の針は、E近くを指している。
目的地に向かい

がら思索をめぐらせていたのは帰りの給油のことだった。

 地方都市で24hの給油所はないだろう。名古屋にしかないのではないか・・・・

 F市のコンビニで休憩を取る。お客さんを乗せた地元のタクシーがコンビニに立ち寄った。直ぐ運転手に給

油所があるか尋ねてみた。なんと、寝ているが電話をして起こせば給油してくれるスタンドがあるという。し

かも、ここから2、3kmのところらしい。なんとツイてることか。

 給油を終えF市を発ったのは、午前4時を回っていた。体力が続く限り一気に東京まで帰ろう。

 ただひたすら暗闇の高速道路を延々と走ってきた。ここまで来たのに随分もったいないと思ったものだ。

間であればどんなに車窓の景色を楽しめたであろうか。ドライブではない、仕事だからしかたがない。

 北陸道から名神自動車道に入った頃、明るくなってきた。車窓から周囲の景色が見えてきた。朝もやの中、

走行車線を100km/hで走行中後ろから車の気配がした。追い越し車線の横を見ると黒塗りのタクシーだ、運

転手と目が合った。お互いグッド・ラック!の挨拶を交わし追い越して行った。大阪ナンバーのタクシーだ。

品川ナンバーのタクシーを見てビックリしていた様子だった。


 今朝は、良く晴れている。東京は、東に位置するので太陽が眩しくてしかたがない。朝日を正面に浴びなが

ら延々と走る。通過する各地方都市で朝のラッシュによる渋滞を心配していたがなんでもなかった。

 そして、事故渋滞もなく無事東京ICにたどり着いたのは午前9時。F市から約5時間ノン・ストップだ。

 「ピッ」タクシーメーターの営収累計ボタンを確認する。19万○○円だ。後千円台で20万になる。

 「惜しいな・・・」

 そう思っていた時、馴染みのお客さんから電話が入った。これを行けば20万になる・・・・。

 しかし、もう限界なので事情を話し他の車に行ってもらった。


 その後、お世話になったこの「お化け」のお客様は、この年の直木賞を受賞し一躍脚光を浴び、時の

人となった。TVにもずいぶん出ていた。その姿を見て、あの時無事にお送りすることができ、お役に立

てたことが何よりも嬉しかった。そして、私のタクシー人生の中でも忘れる事はできない思い出となった。





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